越佐こだわり通信

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0907012揚北衆竹俣氏ゆかりの地宝積寺石碑
0907012揚北衆竹俣氏ゆかりの地 宝積寺苔の様子
0907012揚北衆竹俣氏ゆかりの地宝積寺正面
0907012揚北衆竹俣氏宝積寺石碑
上杉家家臣である竹俣氏の菩提寺です。

5代竹俣慶綱は、天文18年(1548年)12月30日、長尾景虎「後の上杉謙信」が越後守護代となった際には謙信の家来の一人であり、執権職を任ぜられています。
 その後、越中「魚津城」の戦いで籠城した時、柴田、前田、佐々氏らの大軍にとり囲まれ、ついに武器も食料も使い果たしてしてしまいました。
そこで、自分の名前を札に書いて、耳たぶに穴をあけ、札を結びつけ、自がいして最後をとげた。
そうです。
りっばな苔に覆われ、時代の重みを感じます。



ここから東の方面に車で5分程、移動すると佐々木加地氏の菩提寺である香伝寺があります。
佐々木氏は秀綱は謙信公の妹の子であり、謙信公に従って度々川中島に出陣して大功をたてた人です。

0907012揚北衆加地氏ゆかりの地香伝寺石碑
0907012揚北衆加地氏ゆかりの地香伝寺正面

しかし、謙信死後に起こった「御館の乱」には、景勝を退けて景虎を援けんとしました。
しかし、、景勝方の新発田重家と五十公野道寿斉に居城を急襲されて戦死したそうです。
時に天正十五年(1587)八月 三十五歳の若さであったそうです。

この佐々木氏より新発田氏が分家されたり、色々と歴史上ではポイントになる人です。

新発田は、まだゆかりの地が幾つかあります。
今後も紹介むしていく予定です。






 
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